気まぐれ日記 2013年8月
2013年7月はここ
8月1日(木)「会社見学案内と日経平均予想1位・・・の風さん」
某新聞のエッセイ原稿の締め切りが7月末だったので、何が何でも完成させようと未明まで頑張っていたが、午前4時20分にあえなくダウン。
それでも、途中原稿を新聞社へ送って「あと一両日いただければ、完成させられます」という宣言文をつけるのを忘れなかった。
目覚ましを2時間後にセットしたが、起きられなかった。
結局、3時間後に、幽鬼のごとく……じゃなくって、焦って飛び起きて、キャメロンの運動性能に賭けた。昨夜予想した日経平均の再チェックをしている余裕はなかった。
さすがキャメロン、小雨がぱらついていたが、余裕で本社に到着。
刈谷駅まで愛工大の先生や学生たちを迎えに行った。
そうである。昨年に続いて、デンソー見学会のサポートをしたのである。
改札口外を集合場所にしていたが、あいにくの雨のせいか、集まりが悪かった。
ギャラリーで、マイカー組とも合流したが、予定の半数強だった。
しかし、学生たちには会社や工場の見学は興味深かったようで、昼までたっぷり楽しんでいた。
午前中の雨が上がって、猛烈な日差しが降り注ぎだした。
お昼に駅で解散した後は、田村先生と打ち合わせを兼ねて、社員クラブともいうべき施設へご案内し、昼食を摂りながら色々な話をした。
ご病気の大野先生の後期の講義を、田村先生と二人で担当することになりそうだ。
先生と別れた後は、旧職場へ移動し、雑務を処理した後、定時後の交通安全映画を観てから帰宅した。
今日の日経平均は14005円77銭で、予想した13941円69銭との差は64円08銭だったが、なんとクラスでトップの成績だった。うれしくて、ワイフに自慢し、会社の同僚にもメールで報告した。最後になる明日、大外れをしなければ、単位取得の可能性は大きく高まる。
8月2日(金)「日経平均予想で有終の美・・・の風さん」
研修所で交通安全の立哨があるので、ふだんより早起きした。
最後の日経平均予想なので、出社前にネットで再チェックした。昨夜は、すべてのデータが日経平均の上昇を予想させたが、念のために再確認する必要がある。
先ず、アメリカの長期金利をチェック。昨夜と同じ上昇傾向である。続いて、円ドル為替レート。これも円安傾向で変わりない。必須チェック項目の最後は、アメリカのマーケットの結果だ。時差があるので、朝チェックすれば結果が出ている。S&P500をはじめ前日比プラスで終わっていた。もう日経平均の上昇は間違いない。
週末なので、堅めの上げ幅を予想してあったが、100円上乗せすることにした。
経済情報を最後にチェックすると、アメリカの量的緩和の早期縮小の懸念もなくなるようなニュースがあった。日本国内では今朝の段階で大きな事件はない。
安心して洗顔している間に、ふと頭に浮かんだ先生の警句があった。「相場は自分の希望通りにはならない」そうである。私利私欲はギャンブルにはタブーなのだ。自分だけ予想を当ててやろう、自分だけが他人と違った予想をして見事に当てた。そういう欲望は一切捨てることが重要なのだ。
再見直しで100円上乗せしたが、週末の利益確定による売り注文の増加分を、自分はかなり期待をこめて予想していたことに気が付いたのだ。
家を出発するまで時間的余裕はもうなかったが、これだけ素直にプラス要因がそろっているのだから、昨今の大きな動きを考えれば、もっと上昇すると見るべきだと判断して、さらに100円上乗せの修正をした。
久しぶりの研修所である。交通安全立哨の後、先輩と打ち合わせをした。
来週の東京出張の切符を受け取るついでに、本社で元同僚と昼食を摂りながら歓談し、再び研修所の戻った。
たまっていた仕事をいくらか片付けて、今日もさっさと退社した。
帰りにキャメロンに給油したが、猛暑でエアコンを常時使っているので、燃費は10km/Lになっている。
今日の日経平均は予想以上の上昇を示した。後場どころか最後の1時間も急上昇を続け、460円をこえるプラスの14466円16銭だった。
今朝200円上乗せした私は14275円80銭で、差が190円36銭でクラス6位だった。まずまずである。
トップは、昨日桁を間違えて最下位だった置き薬の会社社長で、差は62円12銭である。
成績とは関係ないかもしれないが、今週全体の予想の乖離平均ランキングは、232円15銭で私がクラストップとなった(先週は28人中の12位)。有終の美を飾れたと自己満足した。あとは最終レポートである。
8月3日(土)「世の中には怪物が多い・・・の風さん」
今日も寝坊は許されなかった。昨年に続いて、愛知淑徳大学で非常勤講義をやるのである。
つまり、長崎から帰ってきて、毎日、書斎で寝ている。
しかし、疲労はたまっていた。
ワイフに駅まで送ってもらって、重い体を運んだ。
名古屋駅で「ドニチエコきっぷ」を購入し、地下鉄と市バスを乗り継いで、9時38分、長久手キャンパスに着いた。清潔そうな建物が林立するキャンパスに、1年ぶりでやってきた。守衛に目的のビルの位置を尋ねて、強い日差しの下、ゆっくりと歩いて向かった。
実は、午前中は私の講義ではなく、親松先生の大学時代の同級生の講義で、それを聴講するのが目的で早めにやって来たのである。
来てよかった。ITベンチャーの社長である森川さんの講義に感銘を受けた。専門はプロジェクトマネジメントなのだが、かなり深い。そして、何よりも、一つのことに没頭して研究し、最高峰にいたる型破りの人格に圧倒された。
10年ほど前に会社のすぐ近くにラウンドワンができたことから、ボウリングに本格的に取り組み、今では日本のアマチュアでナンバーワンの実力になっているのだ。年間2000ゲーム以上こなしているそうで、最近のスコアをプロジェクターで見せてくれたが、とんでもない成績、パーフェクト寸前もあった。
平均睡眠時間は3〜4時間程度とのことだが、健康診断結果はいたって良好だったという。先週までのウィークエンドMBAの元数学者伊藤先生を思い出す。世の中には怪物がたくさん徘徊しているのだ。
お弁当でお昼にした後、いよいよ私の講義となったが、昨年の再上映みたいなもので、途中クイズをはさんで『円周率を計算した男』をプレゼントし、なんとかこなした。
直後に回収したレポートの内容もおおむね良好だった。本当にすなおな良い子が多い学校である。
帰りは乗り継ぎが抜群に良くて、7時前に帰宅できたが、玄関で外出先から帰ってきたワイフのアクアと合流するほどのぴったしタイミングだった(つまり最寄りの駅まで迎えに来てもらえなかったということ)。
さすがに疲労が出て、夕食後、さっさと寝た(久しぶりにベッドで)。
8月4日(日)「久しぶりのオフだが・・・の風さん」
いつもと似た時刻の7時に起床。
実に久しぶりに「オフ」である。朝から何となく期待に胸がふくらむ。きっと仕事がはかどるだろう。
午前中は書斎の片付けで終わってしまった。とにかく寝床と物置と仕事場なので、ちょっと大変だった。
午後からようやく某新聞のエッセイ原稿に再着手した。
しかし、夕方、早くも疲労でダウンしてしまった(実際は書斎で昼寝)。
1時間ほどでよみがえって、再度執筆。
晩御飯までにほぼ完成した。
寝るまでにビジネススクールの卒業研究にとりかかるはずだったが、再び疲労が襲ってきて、頭を使わない雑用を優先的にこなした。
明日からまた会社の仕事なので、午前1時過ぎに寝た。これでも早い就寝である。
8月5日(月)「戸締り当番の時間も有効活用・・・の風さん」
昨日はオフだったのに疲労が抜けていない。
研修所に出社し、おにぎり2個の昼食をはさんで、午前と午後の会議に出席した。
たまっている雑多な仕事を片付けながら、定時になった。
今日は戸締り当番である。職制の仕事なので、定年になればこの分担はなくなる。
先々週の先輩講話では、質疑応答が消化不良になったため、もらったレポートにたくさんの質問事項が残っていた。はたしてお役に立てるか自信はないが、誠意だけでもと思い、定時後にQ&A集を作成した。A4で5ページになった。
暗くなって有料道路を走ると、虫がたくさんキャメロンに激突する。田舎道だから仕方ないことなのだが。それで、普段は下道を通って1時間かけて帰宅する。
しかし、戸締り当番で遅くなって今夜は、疲労もあり、有料道路を使うことにした。
スピードは100km/hに抑えて走った(制限速度は80)。
8月6日(火)「残りの人生を大切にしよう・・・の風さん」
入社したのは1980年で配属は9月だったから、今から33年前のことになる。
そのとき部長だった方が、先週、お亡くなりになったということを今日聞いた。
82歳だったというから、昨今の長寿社会から見れば、やや短命だったと言える。
愛知県に就職して、他県の会社に勤務した友人と比較することがあると、いかに激務かとあらためて納得していたが、やがて慣れた。私も激務を平気でこんにちまで突っ走ってきたのだ。
定年が目前に迫って、会社の説明会でも、Tグループの人たちは短命ですよ、と言われ、かつての比較論を思い出した。
再雇用制度はあるが、もうこれ以上無理をしてはいけないのではないか。
私の場合、さらに作家業をやり、50代になってからは学業まで詰め込んだ。
先週逝去された方は重役にまでなった方だ。葬儀はきわめて控えめだったそうだ。
今日は下道を通って帰宅し、途中2か所で買い物もした。
8月7日(水)「悲しい写真撮影・・・の風さん」
本社へ出張した。午前中に、退社記念アルバム用の写真撮影があるのだ。
こういう日が来ることを考えない会社生活を送って来たので(自己都合退社して作家として独立するのが目標だったので)、自分の力不足をあらためて突き付けられて、落ち込む。もしかすると私は、負けず嫌いなのかもしれない。あるいは自意識過剰、あるいはプライドが高過ぎる。……、もう何でもいいや。
あんどん部屋のような(窓がないという意味)小さな会議室に、20人弱の老若男女ならぬ同年男女が集まった。年間退社人数からすれば、こういったことはほぼ毎週繰り返されているのだろう。
中に何となく見た顔があったが、思い出せない(注1)。
欠席者の中に、記憶にある名前があったが、いつ会ったのか、思い出せない(注2)。
還暦とはそういうものか。
一同マイクロバスに乗って市内の小さな写真館に連れて行かれた。
書くほどのこともない時間がそこで流れた。
昼前に本社に戻り、私は元部下がたくさんいる職場へ向かった。一緒に昼食を摂るためだ。
昼食後、本社内の歴史館で「技能教育の歴史展」を見た。迫力のある歴史だ。
偶然、知り合いの女性がやって来た。一度も部下にしたことのない人だが、これまで何度も接触があった。不思議な縁のある人だ。
2時から会議があって、それに出席した後、旧職場へ移動した。
身辺整理でファイル1冊分を裁断した。
今夜は久しぶりに長女が遊びに来るので、ハーゲンダッツのアイスクリームを買って帰った。
一緒に飲んだ極上の赤ワインのせいで、あっけなくダウン。
注1)入社当時、ダブルデートしたときの、向うの彼氏だった(笑)。
注2)社歌を新しくするとき、公募に応募された歌詞の選考を一緒にやった人だった。
8月8日(木)「国会図書館でパニック寸前・・・の風さん」
午前3時に目が覚めた。シャワーを浴びて、今からでもやれるだけやろう、と決意した。
7時半過ぎに、最寄りの駅までワイフに送ってもらった。ワイフのクルマのナビが「今日はそろばんの日です」などとしゃべった。そろばん珠が二つずつ並んでいるように見えるからか。
午後からJMAで会議があるため上京するのだが、行きの電車の中ではひたすらそのための勉強をした。こういった集中力はどこからくるのだろう? ときどきふと不思議に思う。
午前中、1時間だけ余裕ができたので、久しぶりにNDL(国立国会図書館)へ向かった。
ある雑誌のコピーをとりたかったからだ。書誌データは書斎で確認し、プリントアウトもしてあるから、1時間あれば何とかなるだろう。
ところが今日は、想定外のことが続いた。
NDLの登録カードが変更になっていて、更新手続きが必要だという! そのために、新館玄関へ向かった。申請用紙を書いてくれと言われ、自分は新規登録ではなく更新だけだと主張すると、名前と電話番号だけでいいと言われた。身分証明書も必要だと言われたが、幸い、名商大の学生証を持っていたので、それで対応することにした(これは幸運だった)。
受付へ提出すると、「暗証番号は覚えていますか?」と尋ねられたので、自信たっぷりに「はい」と答えたが、内心不安だった(近年ボケが進んでいるので)。
私は用紙に名前と電話番号しか記入しなかったが、受付の人は、パソコン画面を確認しながら、私の学生証を不思議そうに眺め、記入されていない住所欄などに書き込んでいった。なーんだ、最終的には書かなければいけないのか(汗)。
そのカードを使って、直接ゲートから入った。すぐ端末に直行したが、画面が変わっている。書斎で出した書誌データが検索で出てこない。焦ってしまい、近くを歩いていた案内係に、これを出したいと言ったら、直接雑誌の登録番号を入れて出してくれた(なるほど)。ついでに借用申請もしてくれた。
雑誌コーナーに直行したら、風景が変わっていた。申請した雑誌の到着を告げる大型ディスプレイ(電光掲示板みたいなもの)がない。近くにある端末にカードをセットして、自分で確認するのだという。
到着まで20〜30分かかるそうだが、急いでいる時、20〜30分の間に、何回この操作をやったらいいのだ!?
実際、私は急いでいた。この後、複写の申請をしなければいけないのだ。
結局、10回以上もアホな操作を繰り返して、やっと到着を確認。
カウンターへ猛進して雑誌を借りつつ「1冊だけ借りたいときはこのシステムは不便ですね」と愚痴をたれたら、「申し訳ありません」と謝られた。(貴方が悪いわけじゃない)と言いたかったが、もう私には時間がない。既に30分以上が経過していた。階下の複写依頼カウンターへ。
複写申請のやり方も少し変わっていたが、何とか対応した。
しかし、ここでも複写が完了したかどうかは、端末での確認なのだ。
空いていたためか、10分後に複写完了を確認できた。
当初計画では、貸し出しあるいは複写待ちの間に食堂でランチにするはずだったが、できなかった。
複写を受け取って支払いも済ませ、階上の雑誌カウンターへ雑誌を返却し、正面玄関のロッカーへ小走りに向かった。
ランチをやめたせいもあるが、予定通りの地下鉄に乗れそうだった。
NDLを後にして数十メートルほど歩いたところで、コインロッカーで戻ってくる百円玉を摂り損ねたことに気が付いた。慌てて戻ると、私の百円玉は私を待っていた。
急に元気が出た(もしかするとボケの程度はまだ低レベル)。
地下鉄の駅でパンを買って昼食にし、JMA本部へ直行した。
5時まで会議をやり、その後、懇親会にも出て、家路についた。
帰りの電車ではさすがに疲労が出てぐったりしていた。
今日も『江戸の天才数学者』を1冊買ってもらえてうれしかった(何しに東京に来たの?)。
8月9日(金)「恒例の盆施餓鬼・・・の風さん」
今日は心月斎で施餓鬼がある。
先祖の霊をお祀りするのが盂蘭盆会だとするなら、そうでない精霊たちへ施しをするのが施餓鬼会だが、いつしか両者は時期を合わせて盆施餓鬼となった。
昨年11月に母を失った当家は、今年は新盆(初盆)となる。
特別な盆施餓鬼なので、有休を取って家内と参加した。
今日も暑い日だった。
お寺のすぐ横の駐車場はいっぱいだったので、墓参の後、田んぼの中の駐車場にアクアをとめて、正式に山門から入った。お寺は山門から入ると気持ちが清々しくなる。
立派な祭壇の中央に置かれた位牌に向かって2回、焼香をさせてもらった。
儀式が終わった後は、恒例の精進料理で昼食である。煮物ともずくとゴーヤなどの漬物は、毎年同じだが、それがいいのである。安心する。お寺の子供たちがけなげに給仕している様は微笑ましい。
せっかくの有休なので、遅れに遅れていたケースの修正に全力を上げ、深夜、長沢先生へ送付できた。
明日から、ビジネススクール最後のレポート作成だ。
8月10日(土)「宵の明星と花火・・・の風さん」
今日から会社の夏期連休である。かつて実家の両親が元気だったころ、そしてうちの子供らがチビだったころ、猫のシルバーはもとより、亀や昆虫も連れて、どんなに渋滞のリスクがあろうとも、ワゴン車で帰省するのが恒例行事だった。
ワゴン車は、マスターエースが5年、エスティマが5年だったから、そういう楽しみは、少なくとも10年は続いた。振り返ってみれば、人生で最も幸福な時期だったに違いない。とすれば、これから子供らがそういった幸福な時期を味わうための、本格的な準備に入るのだろう。親としては、ただ見守るしかないのだが。
睡眠時間をたっぷりとっているので、朝から元気である。昨夜ケースを一段落させたので、今日は雑務の山崩しから始まった。
このまま夜も自分の仕事に専念できたら、かなりやれたかもしれないが、そうは簡単に問屋は卸してくれない。夕方からワイフが「花火を見に行こう」と言い出した。5年ぶりかで開催される小野浦の花火が、なんと1万発も打ち上げられるというのだ。
火事と喧嘩は江戸の花というが、花火に執念を燃やすワイフは、江戸っ子みたいにノリがいい。
私は電車で行って、野間駅から歩いてもいいのだが、歩くのが苦手のワイフの希望で、キャメロンで出発した。地元の人しか通らない道をひた走る。
野間駅はもとより、野間大坊も過ぎて、某病院の近くまで来たところで、もうこの辺にとめて歩こうよ、と私は我慢しきれず提案した。私はいくらでも歩ける。
すっかり暗くなった野間の灯台の近くで、見物することにした。
浴衣姿のカップルもいて頬笑ましい。
西の空の低いところに細くて赤い三日月が出ている。赤いのは昼間の熱気のせいか。そのすぐ右横にも赤い星が光っていた。宵の明星「金星」だった。
伊勢湾の会場から景気よく花火が上がった。ビックリするような巨大な花火や、芸術的な創作花火はなかったが、数量で勝負しているのだろう、とにかくたくさん上がった。そういった中にも、高く大きく上がったやつもあって、太鼓を叩くような「どん!」という響きが心地よかった。
暑かったが、汗を流すほどではなかったのがラッキーだった。
1時間半たっぷり楽しんで、家路についた。来た時と逆のコースだ。
9時過ぎに、自宅近くの中華レストランに入って、晩御飯にした。ワイフは生中で、私はノンアルコールビール。手ごろな値段の店だったので、腹いっぱい食べることができた(笑)。
8月11日(日)「ギリギリで課題レポートを提出・・・の風さん」
今日の深夜零時が課題レポートの締め切りだった。
しかし、なかなか手ごわい課題だったので、回答の糸口が見出せない。
悶々としているうちに、今日まで来てしまったし、朝からすぐ手をつけることもできなかった。
今日は、午後1時に、心月斎から住職さんが棚経(たなぎょう)に来てくれる日だ。
ミニ仏壇はダイニングにあるので、テーブルをキッチン側へ寄せて空間を作り、精霊棚の風情に仏壇周りをこしらえた。右にお盆提灯、左に仏花(白いバラに似たトルコ桔梗が美しい)。お供えは、野菜と果物だ。そして、仏壇の上に施餓鬼の七如来の五色旗という紙のお札をひもで吊った。
準備は何とか間に合ったが、時刻になってもなかなか住職さんが来なかった。
我が家へ住職さんが来るのは初めてだった。表に出て、ようやく真相が分かったのだが、住職さんは詳細地図で確認したときに、近所の鳴海さんのお宅を我が家と勘違いしたのだ。
棚経は無事に終わった。今日はお盆前で比較的余裕があるとのことだったが、お盆にピークになると、10分単位で隣から隣へといった感じでお経を上げていくとのこと。
住職さんを見送って小休憩してから、いよいよレポートに取り掛かった。もう時間がない。やるっきゃない状態だった。
課題レポートは午後11時に完成し、無事に送付することができた。
へんてこなレポートになってしまったが、零点ということはないだろう。
ホッとしたので、日本酒の原酒を一杯飲んで寝た。まるでシェリー酒のような味だった。
8月12日(月)「悲しい知らせ・・・の風さん」
連日最高気温がハンパじゃない。名古屋で示せば、7日から35℃を超えるようになって、8日は35℃ピッタリだったが、9日が36.6℃、10日が37.6℃、昨日は37.3℃だった。今日も37℃を超えるだろう。
いよいよ書斎の整理を始めた。21日に福島から遺品が届くので、その前に書斎と長女の部屋(私のモノを置きっぱなし)と物入れと物置を整理しておかねばならない。すべての出発点は、私の書斎に空きスペースができることだ。今日は、午前中、書棚の下の方にある紙ファイルを整理した。
自分は死んだものとして、自分で自分の遺品整理をする覚悟で取り掛かったが、なかなか徹底できない。
午後になって、訃報が届いた。
年初から闘病中だった、学位取得のためのご指導をしてくださった大野勝久先生が、8日にお亡くなりなったというメールだった。
週末でしかも夏休み中の出来事だったこともあり、連絡網はマヒしていたようだ。
既に家族だけで葬儀も終わったという。
帰省中の田村先生へ電話して、そういった事情を確認した。27日の午後に、大学関係者が京都へ焼香に行き、追悼行事について相談することにしたというが、私は名古屋で作家として講演する日で動けない。追悼行事には、不肖の弟子ではあるが、末席に連ならせてもらいたい。
それにしてもご病気が発覚してから1年も経過していない。日ごろから人間ドックにはきちんと通っておられたそうだが、内蔵の奥のがんには効果がなかったようだ。
無理をしている鳴海さんは、病気になる確率が高い。無理をしないようにして、検査は徹底的にやってもらうことだ。というのが、先生のお言葉だが、悲しいかな、遺言になってしまった。
心して受け止め、実行しなければ、恩師に申し訳ない。
そもそも大野先生からのお誘いがなければ、50代になってからの、5年間に及ぶ学究生活(ドイツでの学会発表は最高に楽しかった)、学位取得はあり得なかった。
夜になって、力が出ない私は、大量にたまっていた名刺のPC管理くらいしか手がつかなかった。
そしてフェイスブックの更新。
合掌
8月13日(火)「自分で自分の遺品整理・・・の風さん」
中日新聞の朝刊に大野勝久先生の訃報が掲載されていた。死因は胆のうがんと書いてあった。
もともと胆石持ちだったそうで、経過観察は受けておられたらしい。
それでも、胆のうがんの発見は遅れたのだ。
会社の上司や、自分の両親そして今回の恩師の死に触れてつくづく思うことは、人は死ぬ、ということだ。当たり前のことだが、発達しているはずの現代医学をもってしても、病気を完治させることはできないし、びっくりするほどの長寿を与えることはできないのだ。
結局は、その人の寿命、運命だったのかもしれないが、残った者は、その事実を容易に受け入れがたい。気持ちは動揺し、頭の中は混乱する。……。
身辺整理の2日目の今日は、2つの書棚の上に乗っている物をすべて下ろして、先ず仕分けした。
きわめてプライベートなものが多いので、自分の遺品整理をしているような感覚がいよいよ強くなってきた。自分の過去を抹消していくような気分である。
過去はプロセスであり、その結果として今がある。幸い3人の子供に恵まれて、私の知らない将来は彼らに託すことができる。これが一番だろう。そして、さらに幸運なことは、自分の仕事(小説や会社でやったことや学業)が形(や記録)になって残っていることだ。
それでも、それらの元になったのは、私の過去であり、単なる幸運だけでたどり着けた結果ではない。まじめな努力と多くの人たちとの出会いが、今日の結果につながっているのだ。それを知ることができる事物を捨てていくことが何とも寂しいのである。
夕方、ワイフと心月斎の墓地へ、霊をお迎えに行ってきた。
日中の暑さ(今日は最高気温は36.5℃だった)が嘘のように墓地は風もないのに暑くなく、静まり返り、厳かな気分になった。
異常気象のせいか、この夏、ゴキが出ていなかった。
ところが、今夜、2階の洗面所でチビゴキが激走し、私の華麗なゴキジェットでお陀仏となった。
その直後、庭のログキャビンで、大きなゴキが出現し、ワイフのスリッパ攻撃であの世行きとなった。
8月14日(水)「やっと英語の勉強環境が復元・・・の風さん」
今日も自分の遺品整理。これからずっと続くのだ。
今日は、机の主ひきだしの中を整理した。ゴチャゴチャのおもちゃ箱以下だったので、文房具の整理という高い視点から総合的に整理を始め、少々くたびれた寿命寸前のものを身近に置くことを基本コンセプトに再配置した(カッコいい表現だが、実は使えないものをかなり捨てている)。
夜、昨年来の懸案事項だった(また大げさな表現だが)、iPhone5への英語CDの実装(今日はどうも作家らしくない表現が多い)を実現した。それまでのケータイには英語の勉強のための音声データがバッチリ入っていたのだが、iPhone5にしてから同じ状態を作ることが忙しくてできないでいた。
今夜やっと新執筆マシン(Windows8)にiTunesをインストールし、試しに1つの英語CDをダウンロードしてiPhone5との同期をしてみた。うまくいったので、これを今日の最後の仕事として、日本酒の原酒を飲みながら試聴した。
8月15日(木)「終戦の日・・・の風さん」
近年の暑さは異常だと思う。
気温が体温付近以上になると、さすがに暑いが、それより低いと普通の暑さに感じられるから不思議だ。
名古屋や岐阜地方の日中の最高気温は、周辺地域よりも高い。私が住んでいる地域は、実は、そこよりも低いことが多く、だいたい2度くらい下回る。
終戦の日、今から68年前、私が生まれるわずか8年前か、その日の気温は、今より低かったかもしれないが、暑かった日(当時の東京は32.3℃、今日は34.9℃)として記録されている。
自分の遺品整理が続く中、正午のサイレンを書斎で聞き、1分間の黙とうをした。
昼食後も遺品整理に集中し、物置の荷物との入れ替えまでした。
夕方、運転免許取得合宿から無事帰省してきた長男を出迎え、その足で、心月斎の墓地へ霊を送りに行った。持参した仏花は、午後の合間に私が買いに行き、間違って造花を買ってしまい、あわてて返品・生花と交換してきたものだ。ボケていても、やり直しやり直し、スケジュールをこなしていく。
今日の墓地は風も吹いていて、また一段と涼しくなっていた。当地の日中の最高気温は31℃だったから、今は28℃すら下回っているかもしれない。冷房の不要な温度だ。
疲労が足に来ていて、夕食後、リビングのフローリングでぶっ倒れていた。
蘇った後、昨日覚えた手法で、iPhone5に英語CDをすべて収納した。英語は、かつて敵国だった国の国語だと言う人はいないだろう。極端な話、強者が正義を作り出していく。
8月16日(金)「疲労がとれない・・・の風さん」
夏期連休が今日を含めて残り3日になってしまい、焦り出した。仕事はまだ山のように残っている。
しかし、昨日の疲労がとれていないせいか、気力が湧かない。
かと言って、1日寝ているわけにはいかない。
それで、種類の違う懸案事項の処理をすることにした。だいぶ前に受け取った楽天カードの事後処理とD−MAILの更新。それから、外出。銀行に寄って、キャメロンに給油してきた(リッター10キロをまた少し下回った)。日差しがべらぼうに強く、暑かった〜。さらに疲労が増したかも。
今日は遺品整理は中断して、ビジネススクールの卒業研究の一つ、コンサルティングノート作りをした。今日で完成させようと思ったが、無理だった。明日の最重要課題だ。
8月17日(土)「30年分の年賀状を整理・・・の風さん」
22日の午後に福島から母の遺品が届く。自分が整理した最後の遺品だ。それ以外の遺品は、既に遺品処理業者によって整理(廃棄)されてしまった。昨今、遺品処理業は当たっているようで、多忙とのことである。原因は日本が豊かになってモノがあふれているからだろう。私も自分の遺品整理をしていて、つくづくそのことを感じる。
とにかく、母の遺品が届くのに、我が家の受け入れ態勢がまだ整っていなかった。
最大の受け入れスペースは、物置であり、私の書斎であり、特殊物入れであり、そして長女の部屋だった。長女の部屋は私が整理するしかなかった。なぜなら、私のがらくた類がたんと放置されているからである(笑)。
猛暑の夏場に、長女の部屋の整理はちと困難があった。なぜなら、エアコンが壊れているからだ。
朝からコンサルティングノートの続きをやって、長女の部屋の整理は、夕方から行うことにした。
夕方になった。書斎のクーラーをつけてドアを開放し、長女の部屋の入り口に扇風機を置いて冷えた空気を取り込みながらの作業となった。
深夜まで続けたが、作業は遅々として進まなかった。
今回の最大の整理は、年賀状の破棄だった。実に、30年分の年賀状がとってあった。これは遺品整理なのだと自分に言い聞かせながら、カードケースに入っている年賀状は出して、それぞれ四分割カットしてゴミ袋に入れた。合掌している気分はすぐに飛んで行った。これは自分の遺品整理なのだ。
8月18日(日)「いつまで続く半徹夜作業?・・・の風さん」
とうとう最終日になってしまった。
とにかく長女の部屋を整理しないと22日に母の遺品を受け入れることができない。
朝から、主に私の書籍類を特殊物入れに移していった。
書斎からの冷気を長女の部屋へ導入しながらの作業は同じだったが、日中の暑い時間帯にやったのはつらかった。
結局、夕方までかかってしまい、もうヘトヘト。
夕食後、リビングで寝そべって、ほてっている足を冷やした。
疲労がとれるまでかなりの時間がかかった。
そして、午後10時ころからコンサルティングノートに再着手。途中で、グレープの炭酸飲料を冷蔵庫から出して、ぐいぐい飲みながら頑張った。私の場合、炭酸飲料は元気が出る。
そうして、午前3時ころに、また途中段階ではあるが、中間報告を兼ねて、長沢先生へ送付した。
8月19日(月)「連休明け早々・・・の風さん」
旧職場へ出社して会議に出席した。最後に、定年まで2ヶ月を切ったことを話したら、送別会の相談になった。想いに反する定年到達なのでつらいから、特別なイベントは辞退したいと告白し、忘年会に招待してほしいとだけお願いした。ありがたいことに受け入れられた。
製作所へ移動して会議に出席した。こちらでは何も発言しない。定年後、お世話になる職場だからだ。
本社で元同僚と昼食。
研修所に移動した。これから長丁場になる。
にゃんの会のメンバーがやってきて、肉球ストラップのお土産をくれた。ここで一番ハッピーな気分にしてくれるのはにゃんの会のメンバーだ。うれしかった。
夕方の会議に出てから、夜は戸締り当番。定年後はお役御免となるので、あと数回のお務めだ。
連休明けはいくらか元気だったかもしれないが、早くも体力を消耗して帰宅。
夕食後、はたしてダウン。
8月20日(火)「元気が出ない・・・の風さん」
6時半に書斎で目が覚めた。こんな時刻に起床しても出社前に何もできない……と諦めないところが会社生活で鍛えられた人間の特徴だ。上司にメールで用事ができたので出社が1時間遅れることを連絡。
その1時間で昨夜ぶっ倒れる前にやれなかったことをこなした。
研修所に出社して会議に出た後、本社へ移動。昼前に会議をこなし、また元同僚と昼食。
昼休みに別の元同僚が職場を通りがかって歓談。この人は有名なワールドロペットマスター(クロスカントリースキーの世界大会10回以上完走者)である。世界で3000人弱しかいない。日本人はそのうち50人ほどだ。話題は元気な話ではなく、体力が落ちた話。
昼一番に、これまた元同僚とショートミーティング(情報交換が目的)。大野先生をよく知っているので、訃報を伝えた。驚いていた。
そのまま旧職場に移動して同僚と打ち合わせ。私より先に職場を去って行く同僚のために色紙に感謝の言葉を記入した。
どうもしけた話題の多い1日だった。
今日は福島から母の遺品が発送された。明後日、届く。
夕食後、リビングのフローリングの上でダウン。
8月21日(水)「猛暑が続く・・・の風さん」
名古屋の日中の最高気温は、休み明けの19日(月)に12日ぶりに35℃を下回る34℃となったが、昨日は37℃にはね上がり、今日も朝から強烈な日差しが注いでいた。
6時に起床し、今日も1時間ほど昨夜できなかった仕事をしてから家を出た。実際は、想定外のメールが来ていてそれに対応した。
有料道路を降りて、信号待ちになったとき、キャメロンのフロントウィンドウを大きな蜘蛛が走った。もちろん車外だ。よくいる子供の手のひらぐらいのやつだが、色が黒でなく半透明だったので不気味だった。うちの車庫でキャメロンの上で寝ていたのが、突然動き出したので、必死にへばりついていたのではないか。やっとキャメロンが停車したので、移動を始めたら、車体の暑さで驚いていたのだろう。
いつもはどこでもキャメロンを停めたら、窓は少しだけ開けておくのだが、今日は不気味な蜘蛛に入られては困るので、締め切った状態で研修所に入った。
会議が終わった後、本社で昼食を摂り、銀行で振り込みをした後、名古屋経由で旧職場へ行ったのだが、とにかく暑かった。
今日の名古屋の日中の最高気温は昨日と同じ37℃だった。暑かったわけだ。
8月22日(木)「母の遺品が届く・・・の風さん」
やれるときにやるしかない。書斎でのキャンプ生活が続く。
目が覚めているときに少しでもコンサルティングノートを仕上げねば、と思いながら、今朝はPEST分析を完成させた。企業を取り巻くマクロ外部環境分析で、Politics(政治)、Economics(経済)、Society(社会)、Technology(技術)の4つの視点からおこなうものだ。
作成しているケースが2004年当時のものなので、PEST分析も当然2004年当時となる。間違ってもPのところにアベノミクスなどとは書けない。
午前中だけ研修所に顔を出して、午後有休で帰宅した(ランチは本社)。
今日は、母の遺品が届く日だ。それにしても今日も暑い。
中継基地で載せ換えたクロネコが運んできた。若い兄ちゃんが二人だ。簡単に指示すると、みるみるうちに荷物を搬入してしまった。
自分で分解したわけでもないのに、私の使っていたベッドを手際よく復元したのにも驚いた。
ご苦労様、ということで、冷えた桃と飲み物を出した。帰りがけに、冷たいペットボトルも。若さは素晴らしい。
荷物が開梱されるのは、1ヶ月先だろう。
8月23日(金)「講演態度を直そう・・・の風さん」
研修所で自分たちも研修を受講した。「講師スキル研修」である。講演をやることが多い私も、ちゃっかり受講した。
テクニックをいくつか教えてもらったが、それよりも自分でも気付いていなかった欠点を指摘されたのが最大の収穫だった。
立っている時の姿勢だった。左手を腰に当てているのが、傲慢に見えるという。ビデオで確認すると確かにそんな印象。
それにより、自覚している多くの欠点が、すべて傲慢に通じている気がして、それらを修正する必要性を強く感じた。
改善後の講演はそれなりに良くなっていたようだが、まだまだだ。これから実践で直していこう。
終日続いた研修受講だったが、昼休みに生命保険会社の外交員がやってきた。
60歳を過ぎて保険を見直したため、その手続きがいくつかあった。
入院履歴を記入する案があって、いつのことだったか思い出せなかったので、パソコンで気まぐれ日記を読んで確認した。
気まぐれ日記の意外な効用である。
8月24日(土)「全国和算研究山梨大会・・・の風さん」
今年の全国和算研究大会は、山梨県甲府市で開催される。8月になって何度か日中の最高気温が40℃をこえた場所である。
やるべきことが山のようにたまっているが、これは気晴らしを目的に行くしかないと覚悟を決めた。
今回は比較的近く、公共交通機関がやや不便で、自分の本を販売しようという魂胆もあって、キャメロンで出かけることにした。
片道300km強である。6時半に家を出た。気象は不安定で、これから2日間どうなるか予想が立たない。
途中で土砂降りがあったが、約1時間半で恵那峡SAに着いた。中央道を通って出かけるときの恒例ピットインだ。
次も1時間半後と思ったが、なぜか眠くなったので、1時間で2回目のピットイン。ついでに30分弱の昼寝をした。老人モードだ。
ひと眠りしたせいで元気になり、一気に中央道を走り抜けて甲府市内に入った。そして、予定通りの午前11時に今宵の宿に着いた。
初めての石和温泉(いさわおんせん)である。
フロントに駐車場使用を告げて、徒歩で駅へ向かい、パンで昼食後、ローカル線で甲府駅に向かい、集合場所で懐かしい仲間と合流した。
マイクロバスで移動し、武田神社、市立図書館を見学後、ホテルにチェックイン。また深川先生と同室になった。
ここまで甲府の天候は曇りで、蒸し暑かったが、耐えられないほどではなかった。
記念講演を聴講後、集合写真を撮り、恒例の懇親会となった。仕事に追いまくられていた私は、久しぶりにビールを飲んで、酔っ払った。
部屋に戻ってからぶっ倒れて、午前零時に目を覚まし、それから大浴場に行って、さっぱりして再び寝ようとしたら、今度はなかなか眠れなかった。こんなことなら、持参の本でも読めばよかった。
8月25日(日)「本が売れなくても・・・の風さん」
6時に起床し、朝風呂に行った。2つある大浴場は、男女が入れ替えになっていたので、違う方に入った。昨夜入らなかった露天風呂も試した。ぶどう畑から突然湧き出した温泉はアルカリ泉で、さっぱりした風呂だった。
朝食のバイキングはメニューが豊富で、たくさん試したかったが、自重した。
午前中は研究発表だった。1日出遅れたが、今日は朝から鳴海風書店を開業した。絶版本はけっこう売れたが、勘申の『江戸の天才数学者』がさっぱり売れなかった。たくさん余ってしまったので、流された算額がそのままだったり、復興が進んでいない岩手県和算研究会に10冊寄贈した。完売するよりも良かったかもしれない。これから色々とイベントがあり、使い道があるとのことだった。
私がこの全国和算研究会に参加する最大の目的は、多くの数学愛好家と交流できることだ。交流の目的は数学の知識ではない。和算小説に当然登場する数学愛好家というものをちゃんと理解しておく必要があるからだ。貴重な知見が得られるのだ。
別室でお弁当の昼食を摂った後、自由解散となった。私は、宅配手配を含むお土産の購入を予定していたので、少々焦っていた。
結局、ホテルですべて済ませることができた。
それで余裕ができたのだが、同室だった深川先生は既に出発された後だった。駅まで徒歩で向かう愛媛県和算研究会の浅山会長を送り出した後、真島先生を県立博物館までキャメロンでお送りした。
往路とまったく逆のパターンで高速を走った。
一つだけ誤算だったのは、事故による渋滞があったことで、ずいぶんと時間と労力を費やした。
それでも午後8時過ぎに帰宅することができた。
明日からまた怒涛の日々である。
8月26日(月)「パニックにならないのが不思議・・・の風さん」
今週もイベントが目白押しである。昨夜は早く寝たので、午前3時に起床して、最優先課題の卒業研究の一部、コンサルティングノート作りに取り掛かるが、モチベーションが上がらない。ビジネススクールに入学以来、どうもフレームワークが苦手である。生まれつき、型にはまったことが嫌いなので、ルールや規制に抵抗感がある。さすがに自然界の法則には逆らえないことは知っているので、技術の世界には抵抗が少ない。人間界の話は小説家の研究テーマなので、これは自由に扱えるから気にならない。しかし、ビジネスの世界はどうにも「うさんくさい」のだ。
出社時刻になったので、家を出た。
大ピンチなので、会議のない午後は有休にした。
指導教官が私のケースやコンサルノートの最終版を首を長くして待っている。ひしひしと伝わってくるものがあるが、簡単には対応できない。
なぜなら、明日の夕方は、作家としての講演がある。明後日は、会社で再雇用手続きがあるが、まだ書類を作成していない。
そして、木曜日の午後はJMAの会合があるのだが、明後日までに提出する約束の宿題に全く手をつけていない。
金曜日は卒業研究の提出締め切り日で、土曜日は、母の新盆である。
この状態は来週も続くが、今は書かない。
パニックにならないのは、私がボケているせいか。
8月27日(火)「作家としての講演はほぼ成功・・・の風さん」
昨日より1時間遅い午前4時に起床した。夜はパワー切れになるので、どうしても元気な朝のうちに仕事をすることになる。しかし、時間は限られている。
先週からずっと気まぐれ日記も書けないし、LINEのゲームもやれない(ストレス発散すらできない)。そして、ベッドで寝ることができない。書斎でキャンプ生活が続いている。
今日は田村先生や中出先生が京都の大野先生宅を訪問される日だ。不肖の弟子である私は、プライベートの仕事がこなせず、会社の仕事をパスして(つまり有休をじゃんじゃん取得して)綱渡り状態だ。情けない。
とうとう午前も有休にすることに決め、上司にメールした。ワイフへそのことを伝えると、明らかに呆れたという表情。上司も同様なのだろう。返信すら来ない。
先週受講した講師スキルを応用しようと、午後の講演スライドをシンプルにした。あとは態度を低姿勢にあらためることだ。
トールの教室に専念しているワイフに声をかけることもなく、昼前に家を出て、名古屋へ向かった。
地元の経営者が中心の研究会で講演を依頼されたのだ。経営者が聴講者ならば、幕末ものがいいだろうと思い、小野友五郎の話を準備した。
名駅近くの会場となっているレストランに着くと、もうスタンバイ状態だった。
私は急いで準備したが、恐れていたことが起きた。マックブックエアーからプロジェクターに信号が伝わらないのである。
焦りまくったが、講演態度はかなり改善したつもり。そのせいか、皆さん好意的に聴いてくださり、持参した本もすべて売れた。
懇親会では、講演内容にいくらか手応えを感じた。そして、聴講者の方々が一流のビジネスマンと学者ばかりだということが分かり、今後もぜひお付き合いさせていただきたいと思った。
8月28日(水)「多忙に多忙が重なる風さんの巻」
昨日よりまた1時間遅くなって、午前5時起床。疲労が着々と蓄積されているのだろう。
今日午前中が締め切りだったJMAの宿題にとても対応できないことが分かったので、泣きを入れた……ら、明日の午前11時まで延ばしてくれた。ラッキー。
研修所に出社し、月末恒例の有料道路補助金申請をやった。午後、製作所へ移動し、再雇用手続きの書類を提出した。
一橋大学の米倉先生からメールがあって、デンソーのケース研究をしたいので、窓口を紹介してほしいとのことだった。もちろん喜んで対応することにした(どこまで行っても多忙に多忙が重なっていく(笑))。
徹夜態勢でコンサルノートの作成に取り組み、何とか長沢先生へ提出した。
続けて、JMAの宿題である。
8月29日(木)「もしかして卒業の資格なし?・・・の風さん」
明け方、長沢先生から「提出OK」とともに、「ちゃんと提出方法を事務局に確認するように」という心配りメールが届いた。
私はてっきりWeb上にアップロードして終わりだと思っていた。ところがどっこい、そんな単純な話ではなかった。
申請書やら履歴書やら、紙に印刷したケース、コンサルノートと一緒に提出する必要があった。
ちゃんと大学院の掲示板を見ていてくださいね、と注意までされた。
今日は午後名古屋へ行くのに、紙の書類を準備するのが間に合わない。情けない。
結局、JMAの宿題を締め切りの5分前にやっと送信して、慌てて家を出た。書類はむろん持っていない。
JMAの会議は夕方まで続き、その後の懇親会にも出席して、午後9時ころ帰宅したが、パワー切れ寸前だった。
それでも無理して、紙の提出資料の準備に取り掛かった。これが午前零時過ぎまでかかった。後は明日なんとかして届ける。
さあ、これから、やっとデータをアップロードできると思った直後から、大きなつまずきが発生した。
どんなに頑張ってもログインできず、アップロードができないのである。
何となくブロックされているような印象で、あたかも私にはアップロードの権限がないようなメッセージが出るのだ。
マイナス思考のときは、すべてが疑心暗鬼で、悪い方、悪い方へと思考が進む。
ついに卒業延期という4文字まで頭に浮かんだところで、ふて寝することにした。
明日、事務局へ行って確認するしかない。
8月30日(金)「ケース研究をギリギリに提出・・・の風さん」
不安よりも蓄積した疲労が勝って、昨夜は熟睡した。のんきな奴かもしれない俺は。
全身に不安をまとった私をワイフが優しく送り出してくれた。
早朝、研修所の出社。午前中にやるつもりだったことの中から最低限やらねばならないことをやるために、早々と出て来たのだ。
早速、ドジを発見。一昨日、面識のない某役員(海外出張中)にメールを送ってあったのだが、幸運にも返信があった。ところが、人違いだったのだ。もちろん原因は私のボケである。同性の役員がもう一人いて、そちらへ送らねばならなかったのだ。そのことを某役員から丁寧に指摘された。この方は人格者だと思った。すぐに謝罪メールをお送りしたが、正しい役員へ送り直している余裕はなかった。来週の課題となった。
月末なので、月報を書き上げ、出張処理をやれるだけやって、近くの席の先輩に「ドジのためバタバタやっています」とだけ伝えて消えた。この後、本社で打ち合わせの約束をしているので、その前に、不安を払拭するか、あるいは自分の責任を認めて諦める、どちらかの決着をつけなければならない。夕方のケース研究提出締め切りまで、残された時間は少ない。ビジネススクールなので、言い訳は許されない。商機を逃さないことはビジネスの常識だからだ。
キャンパス事務局に着いて、とりあえず紙の提出書類を出し、永久同窓会入会手続きを完了させた。
続けて、最大の懸案事項であるファイルのアップロードができないことを告げた。事務員は「おかしいですね」と冷静に対応してくれるが、私の内心はもう不安でいっぱい。すぐにMacBookAirを取り出して、指定のWebsiteにアクセスし、仮のパスワードを使ってサインインしようとするとできないことをやって見せた。
その画面の反応を見ていた事務員が、「もしかして過去にサインインしたことがあるんじゃないですか?」と言う。「いや。まったく記憶がないんだけど……」「ためしによく使っているパスワードを入れてみてください」若い女性のアドバイスに弱い私は、素直にしたがってみた。すると、どうだろう、アクセスできたのだ! さらに事務員の説明によると、大学院の掲示板には書いてない指示がそこにあって、私の別の不安は一気に解消された(命拾いした思いだった)。
その場で、ファイルをアップロードした。こんな学生は珍しかったと思うが、事務員は忍耐強く、最後までまじめな態度だった。
本社の会議にも楽勝で間に合ってしっかり対応し、その後、旧職場に移動して、そこでも重要な打ち合わせに出席した。
帰る頃に、ワイフからメールが入った。「お兄さんがもう着いているわよ」
そうだ! 明日は、母の新盆だった。
8月31日(土)「母の贈り物・・・の風さん」
大きな懸案事項の一つだったケースを何とか出すことができたので、母の新盆行事に集中することにした。
午前10時からの心月斎での新盆行事は、我が家5人全員と福島からはるばるやってきた兄夫婦の合計7人である。
非常にありがたいことに、お寺では現住職に加えて、前住職も読経に加わってくれた。
般若心経は私たちも本を読みながら声を合わせた。
当地で法事があるときは、兄でなく私がホスト役となるので、読経が終わった後、代表して挨拶をさせてもらった。
今回は、いきなり恩師(大野先生)の死を冒頭に説明し、人間の死が訪れる自然さをあらためて感じたことと、順番に訪れる死に対して、できるだけ長く子孫が法事を継続して行くことの幸福を語ったのである。
昼食は以前にも利用したことのある地元の和食レストランである。秋近しということで、松茸を中心にした会席料理が人気で、私もそれにした。ノンアルコールビールにせざるを得なかったのはちょっと残念だったが、忙中閑ありで、リラックス気分も満喫できた。
満腹だったが、帰宅してから、私たち夫婦と兄夫婦の4人で知多半島の先っぽに出かけた。聖崎(ひじりがさき)というところで、展望台のあるところだ。眼下には伝説の上陸大師像がある。
当地へ超して来た最初の年にここに一人で来て、晴天下の青い大海原を眺めて、自分はここで死んで行くのだと決めた場所である。
今日は晴天ではなかったが、まずまずの天気で、穏やかな会場には秋の近さを感じさせる爽やかな風も吹いていて、皆を案内して来てよかったと思った。
夜は、セントレア空港近くのステーキレストランに出かけた。某駅近くのホテルの一階にあるのだが、人気のない駅付近、ホテル付近というのは不気味だったが、その緊張感もたまらなかった。
こうして、大事な法事の1日が終わったが、しばし得られたリラックスタイムは、亡くなった母からめちゃくちゃ無理している息子へのプレゼントだったに違いない。
2013年9月はここ
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